2024年7月23日火曜日

経済学物理学クイズ、水路に流入した水は何回転したか?

以下、クイズの概要を述べ、次に細かい設定を述べます。

水路についての数量A、B、Cが与えられます。このABCを使って、水源(蛇口)から水路に流入した水が水路を何回循環し、水路から流出するのか、概算できる二つの式を与えます。どちらの概算が適切か、選択してください。

広大な水路(ブラックボックス)+水源+貯水池+水源と貯水池の間の水路。
  • 一定期間、水源(蛇口)から流れ出た水量はA。(ある断面で測定。A>0)
  • 一定期間、水源と貯水池の間の水路を流れる水量はB。(ある断面で測定。B>0)
  • これまでの全期間において、水路から貯水池へと流れた水量はC。
  • 簡単のために定常状態。水量A、Bは時間的に変化しない。
  • 広大な水路(ブラックボックス)は閉じている。

選択肢である概算式。

概算式その一、(A+B)/A。    

概算式その二、(A+B)/C。

「循環の回数を求めるのに、概算式その二なんかありえんやろ」と思った科学者技術者あるいはその卵かもしれないアナタm9(・ω・)!第3節「本問題の意味」へどうぞ。



内容

  1. 問題設定詳細
  2. 選択肢(概算式)
  3. 本問題の意味



問題設定詳細

循環回数の概算をしたいので物理学っぽい感じで記述しています。理想的な状況を考えています。好意的に解釈してください。

  • その水路は皆が利用しています。しかし水路はとても広大なため、一人がその全貌を把握することは困難です。そのためにブラックボックスとなっています。
  • 水源と貯水池の間の区間は、水路が収束しています。この区間は、水路全体の長さに対して十分短い区間です。この区間の上流では一定量の水が貯水池に流れ出ています。その下流では一定量の水が水源から流れ込んでいます。簡単のために、この両者の水量は同量、時間的に変化しない、と仮定します。
  • この水路では、一か月に一度、水が循環しています。回転速度、循環速度は1回転/月となります。(この設定はここでは不要なのですが、現実の経済を考えるときに必要となります)
  • 水路から水があふれることはありません。水源からは水が無限に湧き出し、貯水池の容量は無限大です。
  • 水源と貯水池以外に発散・吸収の要素は存在しません。

この流入量と流出量、および貯水池で計測された水量が与えられます。

  • 水源から一定期間に流れ出た水量A。
  • 収束水路を一定期間に流れる水量B。
  • 貯水池の水量C。


選択肢(概算式)

概算式1、(A+B)/A

概算式2、(A+B)/C

両者の式では、分子がA+Bで共通しています。水源から水路に流入した水量がAで、貯水池と水源の間で計測された水量がBなので、広大な水路のどこかに適切な断面を設定すれば、A+Bの水量が計測されます。

問題は分母です。概算式1では、分母にAをとり、水路を流れている水量A+BがAの何倍であるかを計算しています。これは言い換えると、流入した水量Aがどの程度の期間(循環回数)、水路にとどまるのかを計算しています。概算式1は、水路を何回転すれば水路から貯水池に流れ出るかを計算しています。

流体で考えることが不慣れならば、例えば粒子的に、それもごく単純にAをボール1個、Bをボール2個とでも考えてください。

概算式2では、貯水池に貯まった水量Cを分母としています。Cは時間経過により増加するので、この概算式では、AとBが一定でも、時間が経過するほどに、得られる値は小さくなります。これでは、水源からの水量Aが水路を何回転しているかは計算できません。計算に不適切なこの概算式を出した理由は、経済学における貨幣の循環速度がこの計算方法を採用しているからです。


本問題の意味

今回のクイズは、経済学の貨幣の循環速度の導出方法を、流体的に置き換えたものです。今回のA+Bは、経済学のY=C+G+I=C+T+Sを置き換えたものです。もっといえば、A=G+I、B=Cと置き換えています。(今回採用したCと経済学のCが混ざってていすいません。)

これまでの記事で私が提案している計算方法は概算式1、経済学で採用している計算方法は概算式2です。完全に概算式2とイコールではないのですが、概算式1でないことは確かです。「私が採用している」と書きましたが、この概算は科学者技術者が普通に採用するであろう見積もりです。この記事で主張したいことは、以下の二点です。

  1. こんなおかしな見積もりをする学問が経済学と呼ばれている。
  2. 経済学を基盤とする経済政策によって、特に日本において国民生活は脅かされ続け、科学技術の発展は阻害されている。

この短い記事で、経済学のもろもろの拙さを詳細には書けません。概算式2として示した経済学の貨幣の循環速度の導出についても、科学者技術者の皆さんは「そんなおかしな見積もりをする定量的な学問が存在するわけないだろ、いい加減にしろ!(ドンッ)」と思われるかもしれません。しかし残念ながらこれは現実です。この貨幣循環についてのおかしな計算方法が100年も議論され続けていることを、科学者技術者のみなさんは信じられますか?

私が科学者技術者のみなさんにお勧めすることは、一か月、なんとか時間を作って学部生向けの経済学の教科書を読んでください。一年間、例えばなぜ「Y=C+G+I=C+T+S」で経済規模が測定できるのか、考えてください。「物質的に豊かになる」とは、定量的に何を意味するのか、どう測定するのか、考えてみてください。研究の出発点になりえる仮説の材料は多くありません。参考までに、既存の経済学の知識の範囲で私はこう考えました

(経済学の教科書にはいろいろなトピックが挙げられていますが、それらが統一されたものの見方、一つの仮説によって統一的に記述されているわけではありません。私にはミクロ経済学の原理(需要と供給の均衡)でマクロ経済学の現象(貨幣循環)を説明しようとして、失敗し続けているように見えます。)

日本人の科学者技術者が1年間まじめに研究すれば、それで終了です。今の経済学よりもずっとましな科学的経済学の基盤はできました。お疲れさまでした。「失われた30年間」は再来しません。科研費や企業研究費も増えて研究し放題、とはいきませんが再び日本は先進諸国として、科学技術をけん引することができるでしょう。

この期待される経済学の変化は、かつて科学がもたらした変化同様、不可逆的な認識の変化です。天動説から地動説への変化です。それと同じように、我々は、科学技術による不可逆的な認識の変化を経済と経済学にもたらすことができます。そして、我々の生活は「致命的に」良くなるでしょう。かつての科学による認識の変化同様、ある種の権力者達にとっては文字通り致命的です。

経済、つまり人類による商業活動も自然現象の範疇です。経済学で起きていることは、何一つ、宇宙の法則を乱してはいません(とりあえずそう仮定してみましょう)。それとも「経済は複雑だから科学的に研究することは難しい」なんて数学的証明を、みなさんどこかで見かけましたか?

およそ100年前に量子力学が形成されたように、現在が科学的経済学が形成される時期でもおかしくありません。データサイエンスやAIも面白いです。研究を楽しんでください!


【貨幣循環】の記事を読む順番

2024年7月7日日曜日

科学論文の書き方、#3。英語と日本語と情報伝達方法の普遍性。

前回の記事の第3節で書いた私の主張、「人間にとって普遍的に理解しやすい情報の伝達方法」の存在が私の願望であるという自覚はあります。同時に、この願望は私の不満の裏返しです。私の不満は、「英語は科学論文執筆に適しており、日本語は適していない」という主張への不満です。

この英語適切日本語不適切の主張は、「科学英語論文のすべて 第2版 | 日本物理学会 」から知りました。科学者らしく質問しましょう。日本物理学会への質問は、「どのような仮説と検証を行い、その結論に至ったのか?」、です。

第1節では、この英語適切日本語不適切の主張に対する反論を述べます。第2節では、英語適切日本語不適切の主張の検証方法について述べます。


1. 英語適切日本語不適切への反論

私の反論は以下の二点です。

  1. 日本語であれ英語であれ、どの言語であれ、最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」スタイルを選択することで、科学論文に相当する情報伝達を実践できる。
  2. 英語適切日本語不適切を主張する日本人研究者たちは、自身の観測範囲にいるテクニカルライティングに長けた欧米研究者とのコミュニケーションの結果のみから、英語適切日本語不適切を主張しているのではないか。

1.1 日本語でも英語でも科学論文は執筆できる

1についてですが、私だけでなく、多くの人が実践している行為を紹介します。英語論文、英語記事を作成する際、最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」スタイルで日本語の文章を最初に執筆し、それを機械翻訳し、英文を調整します。実体験として、明らかに日本語でも科学論文のスタイルで文章を執筆できます。日本語に科学論文のスタイルを適応したら、その意味が理解できなくなるということはありません。

現在では、日常的なゼミ発表、学会や企業のプレゼンにおいて最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」スタイルが採用されています。日本語でこのスタイルで発表されたら、内容を理解できなくなりますか?

英語において、逆もまた真なりです。英語において、理由や詳細から先に書き始めたら、それらの英文を理解できなくなるわけではありません。きっと結論に至るまでに、聞いてる人、見てる人はイライラするでしょうが。

これらの事実から導かれる結論は、次のとおりです。

×、「英語は科学論文執筆に適しており、日本語は適していない」

〇、「現在の英語の日常的な用法は、科学論文における情報伝達方法と親和性がある。現在の日本語の日常的な用法は、科学論文には適していない。」

この「現在の日本語の日常的な用法は、科学論文には適していない」ことの意味は、これまでの日本の文化として、その主な会話のスタイルが「理由を先に述べ、結論を後に述べる」、ということです。

繰り返しますが、日本語でも英語でも最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」スタイルで執筆することは可能です。となると、このスタイルが何かしらの特徴、特性を持っていることが推測されます。私の主張では、この最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」スタイルは、「人間にとって普遍的に理解しやすい情報の伝達方法」です。

1.2 日本人研究者たちによる日本語サゲ英語アゲ

冒頭の質問を繰り返します。「どのような仮説と検証を行い、『英語は科学論文執筆に適しており、日本語は適していない』という結論に至ったのか?」

1についてある程度の同意が得られるなら、2についてはそっと目をそらして、今後は触れないのが日本人の大人の態度かもしれません。とはいえ、日本物理学会の名前のもと、論文執筆教育の一環として情報を流布し、図書の出版によってそれなりの収入をあげていたのなら、一定の処置はすべきでしょう。

発展的解消としては、最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」スタイルについて日本語と英語の差異を定量的に研究して、結果を日本物理学会の学会誌(和文)に載せ、「科学英語論文のすべて 第3版」として内容を改めて出版することでしょう。もっと言えば、たぶん科学技術系の人間にとって最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」スタイルでの報告書作成(科学論文含む)はやって当たり前のことなので、その辺の社会普及、教育についてしっかり活動すると、日本物理学会としては、「ちょっとした不適切なミス」を補って有り余るような、社会的意義、社会的存在感を得られるのではないでしょうか。


いろいろ海外の学会にも出席して、その土地の人々と交流して、さらには映画や海外ドラマも楽しんで、どう考えても「英語すごいね!日本語駄目だね!」とはならない。どこも変わらず、同じぐらい優秀かつ同じぐらい愚かな、喜怒哀楽の人々がいて、日本語も英語もそんな人々が使っている言語にすぎない。英語の使用によって、何か良いことだけがあるとは到底思えない。

根本的に、「英語は上水道のように論理展開し、日本語は下水道のように論理展開する」という例えが気に入らない。執筆者たちは、どれだけの悪意を込めたのか。それとも軽いノリだったのか?


科学論文の書き方、#1。節内部、段落内部での「最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」の実践

科学論文の書き方、#2。文は、主語を短く、その後を長く。

2024年7月6日土曜日

科学論文の書き方、#2。文は、主語を短く、その後を長く。

前回の記事では、節全体そして段落内において、最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」ことの実践を勧めました。本書では、そこからさらに一歩進めて、「文」の書き方についてアドバイスします。

この記事での執筆方法のアドバイスは、「主語を短く、その後を長く」、です。それに加えて、短文化と単文化の執筆方法もおすすめします。

本記事の第1節では、「主語を短く、その後を長く」について勧めます。第2節では、読みやすい文章、読者が疑問を持たないような文章を実現するための短文化と単文化について述べます。第3節では、人間にとっての普遍的な情報電方法について提案します。第4節では、前回と今回の記事についてまとめます。


1. 主語を短く、その後を長く

節や段落で最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」ことを実践できても、文単位で読みづらくては科学論文として不適切です。文単位の書き方で私のアドバイスは、「主語を短く、その後を長く」することです。

この「主語を短く、その後を長く」について、私は「日本語の作文技術(本多勝一)」で学びました。ただ私の意見として、この書籍は一読の価値はありますが、購入はお勧めしません。なぜなら、書籍内の例文があまりにも思想がかっているからです。私が気持ち悪いと感じる点は、伝える価値のある、思想と無関係な日本語作文技術の伝達に、作者自身の思想(モノの見方)を組み込む手法です。繰り返しますが、間違いなく一読の価値はあります。

次に、日本語の作文技術が科学論文の執筆に応用できるかといえば、間違いなくできます。英文でいえば、「It is found that ~.」はその典型です。文頭に、短い前置詞句を入れる程度はありだと思います。しかし基本は、「主語を短く、述語を長く」、です。


2. 単文化と短文化

あと「文」についのアドバイスは、単文化と短文化です。これらの手法も、前回の記事で主張したように、「文章に疑問を持たせない」ために必要な書き方です。長文であっても、何度も読めば理解できるでしょう。しかし、最初に読み終えた時点でその長文に疑問をもつことになります。単文化と短文化により、伝える情報は短く単純になります。これはつまり、理解しやすい情報を意味します。

単文化の意味は、具体的には「複数の文を読点や接続詞で安易につなぐことを避けよう」、です。例えば、WhileやWhenを使った、典型的な二文構成の構文は使用します。他の典型例には、「One is ~, and another is ~.」などがあります。しかしそれ以外では、接続詞(主にand)の頻繁な使用は避けましょう。可能な限り、単文化を実施しましょう。三つの文をつなげるなどありえません(過去の自分へ)。

科学論文執筆に慣れた研究者なら、接続詞を高頻度で使用しないでしょう。ただ自分や友人が執筆に慣れていなかったときは、接続詞を多用していた印象(朧げな記憶)があります。このへんは会話文andプレゼン初心者の「そして」の多用に引っ張られていた気がします。

短文化も重要な書き方です。事実を伝える科学論文において余計な修飾は不要です。どこかに統計的な情報があるかもしれませんが、ここでは提示できません。論文を読んでいると、「せいぜいこの程度の長さ」、「この程度の修飾」と思しき感覚はあると思います。

短文化は熱意のある初心者が慣れる必要のある行為です。執筆初心者の大学院生などは「自身の細かいニュアンスを伝えたい」と考えるかもしれませんが、残念ながらそれは科学論文には不要です。「『私は』自身の考えの細かい点を伝えたい」と思うかもしれませんが、「科学論文の読者の大半がそこまで知りたい訳ではありません(知りたい読者もいます)」。

この研究者が持つ細かい情報については、論文では不適切ですが、その主題に強い興味を持つ相手と議論を通じて交換すべき情報です。議論と科学論文では、情報をやり取りする層の興味レベルの幅が違います。科学論文については興味レベルの少し低い研究者も研究テーマ探しあるいは知識吸収の一環として読みます。あなた方がゼミで近い分野の論文を紹介するように、です。

話がそれましたが、単文化と短文化の応用として、「~, because ~.」の前後の文が長くなってしまったときなど、私は「~. This is because ~.」というように二つの文に分けます。この辺の塩梅(分けるべき文の長さや、その分け方)は、試行錯誤しながら覚えていくと思います。


3. 普遍的な情報伝達方法

今回、文の構造として「主語を短く、述語を長く」を紹介しました。これは、最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」に似た構造でもあります。おそらく、人間にとって普遍的に理解しやすい情報の伝達方法が存在します。それは、主題(主語(行為の主体)、あるいは結果、あるいは範囲)を最初に明確に提示することによって後続の情報の理解が容易となる情報の伝達方法です。

文、段落、節、そして論文全体の各構造において、最初に執筆者が伝えたい情報を与え、次にその情報について詳しく述べる。そして節単位および論文全体では、その最後に執筆者が伝えたい情報を再度与える。このフラクタルにも似た情報の階層構造が、おそらく我々人間の頭に入りやすい、言い換えると読者にとって理解が容易な情報の伝達方法なのでしょう。

一つ不明な点は、この手法・原則が全宇宙の知的生命体に適用可能な普遍性を持つか否か、です(笑いのポイント)。翻って、「人間にとって普遍的」の意味は、この情報伝達方法が言語に依存しない、という意味です。つまり、英語であれ日本語であれ、この原則に沿って執筆すれば、読者に内容を理解されやすい論文・報告書が出来上がります。


4. #1と#2のまとめ

前回と今回の記事内容をまとめます。

  1. 節単位と段落単位、最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」
  2. 文単位、「主語を短く、述語を長く」する。

これらの科学論文の執筆方法によって、科学論文の執筆教育の現状(科学論文を構成する節を提示する、図の意義を強調する、など)から一歩踏み込んだ、執筆方法の提示ができたと思います。同じ内容の記事、論文があっても驚きませんが、本記事の内容によって大学院生の科学論文執筆が容易になれば幸いです。

結局のところ、ある程度は論文を読む必要があります(次はこの状況をなんとかしたい)。読んでいない研究者はそもそも書くべき研究成果が無いでしょう。ベテラン研究者の論文などを読むときには、言い回しや文の長さをチェックするのも良いでしょう。グラフや図の説明文などの細かい書き方に困ったら、「すでに出版された論文」に倣うのは賢い手段だと思います。とは言っても、やはり全体のバランス、一文、一段落で伝えたい内容は執筆者が調整すべき課題です。先人の論文を安易に真似て、成功を得ることはないでしょう。


科学論文の書き方、#1。節内部、段落内部での「最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」の実践

科学論文の書き方、#3。英語と日本語と情報伝達方法の普遍性。

2024年7月2日火曜日

科学論文の書き方、#1。節内部、段落内部での「最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」の実践

科学論文の節構成や、結論となる図の重要性についての記事はいくらでもあります。本記事ではそこから一歩踏み込み、節や段落の内部での文章の書き方についてアドバイスします。

私からのアドバイスは、最初に結論(枠組み、詳細に説明する範囲)を伝え、次に詳細を伝える」、この情報伝達の原則を、節内や段落内でも実践することです。これは頻出構文の紹介ではなく、執筆方法の原理の紹介です。

本記事は全4節で構成されます。第1節では、最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」ことの具体例を示します。第2節では、「文章に疑問を持たせない書き方」の意義を示します。第3節では、「科学論文の書き方」の記事の現状を記します。第4節では、私が昔に最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」ことを実践して執筆した論文を紹介します。


1. 節内や段落内での実践。具体的には?

1.1 段落内での実践

最初に、一つの具体例を紹介します。

  1. 正解「結論はAです。理由は三点あります。第一はBです。第二はCです。そして第三はDです。」
  2. 半正解「結論はAです。理由は、BとCとDです。」
  3. 不正解「BとCとDから、Aが結論です。」

これらの正解、半正解、不正解の理由を説明します。1は、論文あるいは報告書として正しいスタイルです。ここでの「正しいスタイル」とは、先に挙げたように最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」ということです。1では結論を示し、理由の範囲(個数)を示し、最後に理由を詳細に説明しています。

2では、後半の理由を述べている文が1に比べて短文です。こちらのスタイルを好む人もいるでしょう。しかし科学論文を構成する文としては不適切です。1と異なり、理由の個数を最初に提示していないからです。ここでは簡単に「B, C, D」としましたが、これら3つの理由が「○○が▲▲である」のような文(長文)であることもありえます。この場合、Bの説明が終わり、Cの説明が始まる段階でおそらく読者は「理由は残りいくつあるのか?」という疑問を持つでしょう。科学論文においては、読者に、文章について疑問を持たせてはいけません。

3は原則とは逆に、詳細な理由から説明しています。これは私たちが会話文で多用するスタイルです。このスタイルは科学論文では完全に不適切です。科学論文や報告書の執筆初心者は、執筆に慣れないうちはどうしてもこのような不適切な科学論文を書いてしまいます。その理由は、論文執筆者が、自分たちが慣れている会話文での情報の伝え方を頼りにしてしまうからです。

1.2 節全体での実践

上記の具体例は段落内での文章に相当します。いくつかの段落で構成される節全体でも、同じ原則を実践します。つまり節の最初の段落で続く段落についての範囲、見通しを紹介します。結果や議論の節が分かりやすいでしょう。その冒頭で、その節で記述する範囲(この場合は示される結果、議論の内容)について紹介します。データ紹介や数値計算手法紹介の節なら、装置や数値計算手法とそれらの原論文を最初に示し、続いてデータの取得日時や高指数・計算時間などの詳細に進むべきでしょう。

私は天体物理系、地球物理系の論文くらいしか知りませんが、イントロダクションの最後で、「第2節では、、、。第3節では、、、。」と紹介するスタイルは、間違いなく読者に「論文の範囲を伝え、後で詳細に説明する」ことを実践しています。


2. 科学論文で望まれる「文章に疑問を持たせない書き方」

科学論文において、その内容についてではなく、情報を伝える媒体である文章について疑問を持たせてはいけません。文章に疑問を持つということは、情報(論文の内容)がスムーズに得られないことを意味します。これは、読者である、多忙でエネルギー不足になりがちな研究者にストレスを与え、論文を読みたいという意欲を削いでしまいます。

科学論文の目的は科学的成果を伝えることです。伝えた結果、読者である研究者がその結果から新たに「仮説と検証」のプロセスを実践します。一般的な科学研究は失敗の量で成果の量と質が決まります。また優秀であるほど研究者は多忙になってしまいます。よって研究者は、自身と読者の研究時間を極力尊重すべきです。そのために、科学論文においては文章自体に疑問を持たせてはいけません。そしてその具体的な方法は、科学論文の至る所での最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」ことの実践です。


3. 「科学論文の書き方」の現状

現在、日本の科学論文の執筆教育の根幹は、「頑張って多くの論文を読んで論文のスタイルに慣れよう」、というものです。この教育方法は、節内や段落内での最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」ことの実践によって大きく改善することができます。

2024年6月末、「科学論文の書き方」をキーワードとして検索すると、出てくる記事の内容は、節構成(イントロ、データ、結論、議論)の紹介と、図表の重要性の強調、図の書き方の説明が一般的です。

Q. 「そんなこたぁ分かってんだよ!知りたいのはその先、科学的成果があって、節構成があって図表があって、それでどんな文章を書いたら論文がエディターチェックを通るの?アクセプトされるの?」

A. 「英語論文をたくさん読めば書けるようになるよ!」

答えになってねー。普遍の法則を見出して知識体系を構築する科学者からの回答が、こんな力業でええんか?

(日本人)研究者の英語科学論文執筆の現状は、全く良くない状況です。そこで今回の節内や段落内での最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」ことの実践が、多くの科学者研究者および大学院生に役立つことを願います。


4.科学論文執筆についての筆者の業績

さて、ここまでの内容の適切不適切とは別に、御高説を垂れてきた私は読者の信頼を得るに足るでしょうか?(本当は私への信頼なんて不要で、内容・技術が適切であり、読者がそれを理解できるならばそれで良い)

The area asymmetry in bipolar magnetic fields, T. T. Yamamoto, A&A 539, A13 (2012)

上記論文は、科学的結論も英文執筆もレフリーとのやり取りも完全に独力で遂行した私の論文です。(なんで一般家庭からフルテキストが読めるんだ?オープンにしたっけ?)

私が博士号を取得した20年近く前、日本語博士論文はなんとか書くことができましたが、博士論文の内容を独力で英語論文にする能力はありませんでした。「一人前の研究者」はもちろん論文執筆もできて当たり前と考えていましたので、当時からいつか独力で英語論文を執筆したいと考えていました。そこで執筆したのがこの論文です。

その当時、「結論を書いてから詳細」を節内部や段落内部でも心がけていたのはよく覚えています。なぜそれを心がけたのかは覚えていません。ただこの論文の執筆によって、英語論文執筆は私の中で「困難な作業」から「普通の作業」に格下げされました。この論文のあと、共同論文の筆頭著者として二本の論文を書きましたが、英語執筆で無茶苦茶詰まった覚えはありません。

この論文、レフリーが意味不明で最終的にエディター兼レフリーになった記憶があります。subumitとacceptの日付で1年半強。孤独でもよく頑張りました、私。なお脱字はありますし、最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」ことを徹底する余地もあります。


今回の記事も最初に結論(範囲)を伝え、次に詳細を伝える」スタイルで執筆しました。4を除いて。プレゼン手法によくある「最後に結論を再度伝える」の部分は、今回は意図的に省略しています。これは、プレゼン全体、論文全体でも最後の「まとめ」で結論を伝えることを私が当然視しているからです。途中の節の内部や段落内部で結論を再度伝えることは、強調のし過ぎと考えました。


科学論文の書き方、#2。文は、主語を短く、その後を長く。

科学論文の書き方、#3。英語と日本語と情報伝達方法の普遍性。

2024年6月16日日曜日

自然現象としての経済活動

本記事では、人類の経済活動が自然現象の範疇にあることを主張したい。


1. 人類が作り出した建築物について

人類の経済活動が自然現象の範疇にあることは、人類のすべての活動が自然法則を超越していないことに由来する。

ここでは建築物を例に挙げよう。建築物は、人類活動が無ければ自然界には存在せず、人類のあらゆる活動の象徴とみなすことができる。世界的には古代ピラミッドや、ローマの水道橋と闘技場を有名な例として、各国にはその国の歴史を代表する建築物が存在する。日本ならば古墳に寺社仏閣、城郭と城跡、そして現代では東京スカイツリーに始まり、高速道路、新幹線と在来線の線路網に加え、その他多くの建築物、何よりも民家!、が存在する。

しかし、どの建築物の機能も自然現象の範疇にあり、自然法則を超越したものは存在しない。私は現代の建築物についての詳細な知識など持たないが、主に使用されている材料はコンクリートや鉄骨(合金?)、木材、そしてガラスだろうか。現在の科学水準を逸脱した材料が日本の建築物に使われている、という話は聞いたことがない。そしてこれら建築物の機能や耐久年数もとうぜん材料に由来する。

我々の人類の最新の技術力は自然の法則を効率的に活用しているが、自然法則を超越してはいない。このことは当然なこと、極めて自然なことである。多くの読者、一般の皆さんは改めて議論するまでもないと思うかもしれない。

では、この認識を経済方向に拡張しよう。つまり、人類の経済活動も自然現象の範疇を超えてはいない、と認識しよう。


2. 人類の経済活動の複雑さ

日本の経済学者は、科学技術の発展および世界経済の発展と対照的な日本経済の低迷について質問されるとこう答えたことがあった

”経済は(自然現象よりも)複雑なので”

さきほどの「人類の経済活動が自然現象の範疇にある」ことを考えると、この複雑さは十分に分析可能な複雑さであると期待される。なぜなら、科学者たちはそれ以上の複雑な自然現象全体を理解すべく(手を付けられる所あるいは興味のある所から始めたのが実態ではあるが)、研究をつづけ、その全体像をある程度理解しているからである。

日本の、そして人類の経済活動がどれだけ複雑に見えても、それは地球全体の自然活動に内包されるものである。私の妄想でいえば、ひょっとしたら人体と同程度に複雑かもしれない。しかし経済活動が、地球近傍および地球上での異なるタイムスケール空間スケールの中での物質とエネルギーの循環と生命の進化よりも複雑かと言われたら多くの人々は否定するだろう。少なくとも私は否定する。

「地球近傍地球上での異なるタイムスケール空間スケールの中での物質とエネルギーの循環と生命の進化」などと格好をつけて書いたが、もう少し具体的には、太陽の影響受ける地球近傍の宇宙空間と地球大気の相互作用、地球大気内の天候気候、海中を含めた全地球表面における生命活動、そして地球内部(表層近く)のマントルの動きによってもたらされる大陸移動や突発的な火山の噴火など、ここに書ききれないほどの個々の自然現象及びその相互作用を意味している。ここに書ききれないのが当然で、科学の研究対象は非常に幅広い。翻って経済学、マクロ経済学の研究対象がこれより複雑だとは思えない。

従って、ここでの主張として、科学的研究活動は経済学を十分に理解できる。現在の経済と経済学の発展の弱さ遅さは、経済学者が科学的手法を用いていないからである。


3. 経済学の迷走、本質的問題

蛇足な気もするが、他の記事の宣伝ついでに書いておこう。

経済学100年の成果として、より正確には100年前の成果として、国家経済の規模を以下の式で観測している。

Y = C+G+I = C+S+T

いわゆるGDP、国民総生産とはこのYの値である。

私が理解している限り、経済学の問題は、この式の大本を説明する仮説がないこと、この式を定量的に導く仮説がないことである。(そして時間的空間的スケールや効果の強さを定量的に考慮せずに、経済効果をアピールするだけの経済学者)

私のうつろな記憶では、ガス圧や電気抵抗は、粒子(電子原子分子)の平均自由工程から求めることができた。ただ経済学には、そのような経験的規則を説明するための原子論に相当するものがまだないのである。100年たっても存在していない。

私の仮説を紹介しよう。以下の図である。


矢印は貨幣の流れを示している。太さは貨幣の量を意味する。

この図は、マクロ経済学の循環フロー図(企業、家計、生産要素市場(労働市場)と財サービス市場から構成される)に、政府と金融市場を加え、貨幣の流れを示した図である。詳細な説明は以前の記事に任せるとして、この図なら、Y = C+G+I = C+S+Tを、1年の間に断面で測定された貨幣の量として説明できる。

またこの図の示すところは、政府と金融市場から、企業、家計、生産要素市場と財サービス市場へ流れ込む貨幣量が増えれば、GDPが成長するということである。政府と金融市場からの貨幣流が増えなければ、GDPという測定された貨幣量は増えない。「流れるプール」の水量のように、水を多く供給すればその分増えるだけである。つまりGDPは、個人の努力や企業の生産性とは無関係である。一年間に測定された貨幣量であるGDPは、ミクロ経済学とは無関係である。政府と金融市場からの貨幣流がGDPに対して一次の効果なら、公的金利は二次以下の効果であろう(現実になんの効果も無かった)。

これは、決して斬新なアイデアではなく、「貨幣の流れはこうなっている」という観察の結果、あるいは紙幣発行について法律的制限からの推測である。

そしてこの仮説、「政府と金融市場からの貨幣量が増えれば、GDPが成長する」ことは、政府支出Gの成長率と名目GDPの成長率の関係をよく示している。これが私が現時点で示せるマクロ経済学の「仮説と検証」である。

経済学者と名乗る人々が現在なすべきことは、Y=C+G+I=C+S+TがGDPを測定できる根拠となる仮説を構築し、その仮説の検証の一つとして政府支出Gの成長率と名目GDPの成長率の関係を用いることである。

そしてさらなる「仮説と検証」の発展として考えられる方向は、「政府支出Gの成長率と名目GDPの成長率の関係」が時間平均した成分なので、政府支出Gの成長率と名目GDPの成長率の時間変動について、時間平均した成分とそれ以外の振動成分の説明の両立である。



蛇足ついでに、この先機会もないので書いておこう。

私の調べたところ、歴史的な経緯を見る限り、経済学の学問的認識は退化している。100年以上前、第一次世界大戦へときな臭い時代、その頃には我々がミクロ経済学と呼んでいる、「需要と供給の平衡」を基盤とする経済学は存在した。しかし欧州各国の経済学者たちが、おそらくは現在とは比較にならないくらいの激論を交わしても、国家経済成長は困難だった。それは当然で、ミクロ経済学は市場内の貨幣の流れ(あるいは企業間の貨幣の奪い合い)を考えたもので、国家経済を成長させるために複数の市場全体の貨幣量を増やすことはout of scopeだからである。

マクロ経済学は、そのような歴史的流れの中で、労働市場全体、財サービス市場全体、消費者全体、企業全体の貨幣の流れを考えるためにできた学問である。そして、Y = C+G+I = C+S+Tで国家の経済規模を測定することとなった。しかし現在のマクロ経済学にはMicrofoundation(ミクロ経済学的基礎づけ)という考えが流行しており、つまり「ミクロ経済学に基づかなければ、正しくない」と考えることが正当化されているらしい。私が調べたところ、数学的証明や定量的な理論的根拠は見当たらなかった。

世界中の経済学者はこのような認識にあり、経済政策はこれまでの経験による手工業レベルの操作である。経済学の学問としての質は低い。過去100年間の科学技術の発展に対して、経済学は何を発展させたのか理解できない。経済学において、数字を客観的な指標とした「仮説と検証」サイクルが機能していないことは明らかである。ここに科学者が活躍する余地は十分にある。特に、大学で窮乏を訴えているだけの日本人研究者は経済学を研究すべきである。むろん彼らが大学職員として研究もせずに(研究できずに)研究者人生を終えることも結構であり、この先の30年間文科省に対して交渉活動を続けることも結構である。


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