2024年6月16日日曜日

自然現象としての経済活動

本記事では、人類の経済活動が自然現象の範疇にあることを主張したい。


1. 人類が作り出した建築物について

人類の経済活動が自然現象の範疇にあることは、人類のすべての活動が自然法則を超越していないことに由来する。

ここでは建築物を例に挙げよう。建築物は、人類活動が無ければ自然界には存在せず、人類のあらゆる活動の象徴とみなすことができる。世界的には古代ピラミッドや、ローマの水道橋と闘技場を有名な例として、各国にはその国の歴史を代表する建築物が存在する。日本ならば古墳に寺社仏閣、城郭と城跡、そして現代では東京スカイツリーに始まり、高速道路、新幹線と在来線の線路網に加え、その他多くの建築物、何よりも民家!、が存在する。

しかし、どの建築物の機能も自然現象の範疇にあり、自然法則を超越したものは存在しない。私は現代の建築物についての詳細な知識など持たないが、主に使用されている材料はコンクリートや鉄骨(合金?)、木材、そしてガラスだろうか。現在の科学水準を逸脱した材料が日本の建築物に使われている、という話は聞いたことがない。そしてこれら建築物の機能や耐久年数もとうぜん材料に由来する。

我々の人類の最新の技術力は自然の法則を効率的に活用しているが、自然法則を超越してはいない。このことは当然なこと、極めて自然なことである。多くの読者、一般の皆さんは改めて議論するまでもないと思うかもしれない。

では、この認識を経済方向に拡張しよう。つまり、人類の経済活動も自然現象の範疇を超えてはいない、と認識しよう。


2. 人類の経済活動の複雑さ

日本の経済学者は、科学技術の発展および世界経済の発展と対照的な日本経済の低迷について質問されるとこう答えたことがあった

”経済は(自然現象よりも)複雑なので”

さきほどの「人類の経済活動が自然現象の範疇にある」ことを考えると、この複雑さは十分に分析可能な複雑さであると期待される。なぜなら、科学者たちはそれ以上の複雑な自然現象全体を理解すべく(手を付けられる所あるいは興味のある所から始めたのが実態ではあるが)、研究をつづけ、その全体像をある程度理解しているからである。

日本の、そして人類の経済活動がどれだけ複雑に見えても、それは地球全体の自然活動に内包されるものである。私の妄想でいえば、ひょっとしたら人体と同程度に複雑かもしれない。しかし経済活動が、地球近傍および地球上での異なるタイムスケール空間スケールの中での物質とエネルギーの循環と生命の進化よりも複雑かと言われたら多くの人々は否定するだろう。少なくとも私は否定する。

「地球近傍地球上での異なるタイムスケール空間スケールの中での物質とエネルギーの循環と生命の進化」などと格好をつけて書いたが、もう少し具体的には、太陽の影響受ける地球近傍の宇宙空間と地球大気の相互作用、地球大気内の天候気候、海中を含めた全地球表面における生命活動、そして地球内部(表層近く)のマントルの動きによってもたらされる大陸移動や突発的な火山の噴火など、ここに書ききれないほどの個々の自然現象及びその相互作用を意味している。ここに書ききれないのが当然で、科学の研究対象は非常に幅広い。翻って経済学、マクロ経済学の研究対象がこれより複雑だとは思えない。

従って、ここでの主張として、科学的研究活動は経済学を十分に理解できる。現在の経済と経済学の発展の弱さ遅さは、経済学者が科学的手法を用いていないからである。


3. 経済学の迷走、本質的問題

蛇足な気もするが、他の記事の宣伝ついでに書いておこう。

経済学100年の成果として、より正確には100年前の成果として、国家経済の規模を以下の式で観測している。

Y = C+G+I = C+S+T

いわゆるGDP、国民総生産とはこのYの値である。

私が理解している限り、経済学の問題は、この式の大本を説明する仮説がないこと、この式を定量的に導く仮説がないことである。(そして時間的空間的スケールや効果の強さを定量的に考慮せずに、経済効果をアピールするだけの経済学者)

私のうつろな記憶では、ガス圧や電気抵抗は、粒子(電子原子分子)の平均自由工程から求めることができた。ただ経済学には、そのような経験的規則を説明するための原子論に相当するものがまだないのである。100年たっても存在していない。

私の仮説を紹介しよう。以下の図である。


矢印は貨幣の流れを示している。太さは貨幣の量を意味する。

この図は、マクロ経済学の循環フロー図(企業、家計、生産要素市場(労働市場)と財サービス市場から構成される)に、政府と金融市場を加え、貨幣の流れを示した図である。詳細な説明は以前の記事に任せるとして、この図なら、Y = C+G+I = C+S+Tを、1年の間に断面で測定された貨幣の量として説明できる。

またこの図の示すところは、政府と金融市場から、企業、家計、生産要素市場と財サービス市場へ流れ込む貨幣量が増えれば、GDPが成長するということである。政府と金融市場からの貨幣流が増えなければ、GDPという測定された貨幣量は増えない。「流れるプール」の水量のように、水を多く供給すればその分増えるだけである。つまりGDPは、個人の努力や企業の生産性とは無関係である。一年間に測定された貨幣量であるGDPは、ミクロ経済学とは無関係である。政府と金融市場からの貨幣流がGDPに対して一次の効果なら、公的金利は二次以下の効果であろう(現実になんの効果も無かった)。

これは、決して斬新なアイデアではなく、「貨幣の流れはこうなっている」という観察の結果、あるいは紙幣発行について法律的制限からの推測である。

そしてこの仮説、「政府と金融市場からの貨幣量が増えれば、GDPが成長する」ことは、政府支出Gの成長率と名目GDPの成長率の関係をよく示している。これが私が現時点で示せるマクロ経済学の「仮説と検証」である。

経済学者と名乗る人々が現在なすべきことは、Y=C+G+I=C+S+TがGDPを測定できる根拠となる仮説を構築し、その仮説の検証の一つとして政府支出Gの成長率と名目GDPの成長率の関係を用いることである。

そしてさらなる「仮説と検証」の発展として考えられる方向は、「政府支出Gの成長率と名目GDPの成長率の関係」が時間平均した成分なので、政府支出Gの成長率と名目GDPの成長率の時間変動について、時間平均した成分とそれ以外の振動成分の説明の両立である。



蛇足ついでに、この先機会もないので書いておこう。

私の調べたところ、歴史的な経緯を見る限り、経済学の学問的認識は退化している。100年以上前、第一次世界大戦へときな臭い時代、その頃には我々がミクロ経済学と呼んでいる、「需要と供給の平衡」を基盤とする経済学は存在した。しかし欧州各国の経済学者たちが、おそらくは現在とは比較にならないくらいの激論を交わしても、国家経済成長は困難だった。それは当然で、ミクロ経済学は市場内の貨幣の流れ(あるいは企業間の貨幣の奪い合い)を考えたもので、国家経済を成長させるために複数の市場全体の貨幣量を増やすことはout of scopeだからである。

マクロ経済学は、そのような歴史的流れの中で、労働市場全体、財サービス市場全体、消費者全体、企業全体の貨幣の流れを考えるためにできた学問である。そして、Y = C+G+I = C+S+Tで国家の経済規模を測定することとなった。しかし現在のマクロ経済学にはMicrofoundation(ミクロ経済学的基礎づけ)という考えが流行しており、つまり「ミクロ経済学に基づかなければ、正しくない」と考えることが正当化されているらしい。私が調べたところ、数学的証明や定量的な理論的根拠は見当たらなかった。

世界中の経済学者はこのような認識にあり、経済政策はこれまでの経験による手工業レベルの操作である。経済学の学問としての質は低い。過去100年間の科学技術の発展に対して、経済学は何を発展させたのか理解できない。経済学において、数字を客観的な指標とした「仮説と検証」サイクルが機能していないことは明らかである。ここに科学者が活躍する余地は十分にある。特に、大学で窮乏を訴えているだけの日本人研究者は経済学を研究すべきである。むろん彼らが大学職員として研究もせずに(研究できずに)研究者人生を終えることも結構であり、この先の30年間文科省に対して交渉活動を続けることも結構である。


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