1.学術研究の意義(文部科学省、学術分科会、H21~)
学術の基本問題に関する特別委員会(第2回) 議事録(平成21年3月31日(火曜日) 14時~16時)
学術の基本問題に関する特別委員会(第5回) 議事録(平成21年6月11日(木曜日) 15時~17時)
【学術と社会の関わり方】
> ○ 社会を構成している人々は価値の担い手であり、社会を分析する場合は、科学者として価値の問題は避けて通れない。【第2回】
社会学にとって人間と社会の価値観が、研究の方針あるいは題材になるのは間違いない。
> ○ 政策、公費の投入という観点からすれば、研究者の自由な発想というだけでは国民の理解を得られず、社会の価値観にも配慮しなければならない。【第2回】
自然科学の基礎研究については、私は、この「社会の価値観にも配慮しなければならない」という考えには断固反対する。
その理由は、社会の価値観(あるいは人類の欲求)は自然法則を作らないからである。
自分たちの要求に応じて研究を進めれば素晴らしい道具(解決策)が生まれる、のではない。
自然の在り方を調べて、それを応用してよりよい道具を作り、人類の生存に寄与する、のである。
この認識は、国民はもちろん政治家と官僚は特に理解しなければならない。
自然は、過去も現在も未来も、地球上でも遠い銀河の星々でも、人類の欲求、あるいは個人的な欲望とは無関係に、存在している。
我々が「いまこれが欲しい」と言っても、四次元ポケットから都合の良い道具が出てくる訳ではない。
「国民の理解が得られない」のではない。
日本国民の、科学技術に対する現在の認識・理解がおかしいのである。
日本の義務教育は素晴らしく、「理科」と身近な自然災害によって、自然現象の理解は他国の国民よりも進んでいる。
だが、自然現象の理解と、生活を便利にしている工業製品の存在は、リンクしていないように思われる。
自然現象の研究結果とは関係なく、ただ「日本の技術者が頑張って工業製品を作っている」という認識なのではないか?
例えば現代生活に欠かせないコンピューターやスマートフォンへの日本人の認識も、過去2000年以上、特に最近の400年間の自然科学の研究の積み重ねとは無関係に、最近になって技術者が頑張って作った、という程度ではないか?
> ○ 認識科学と設計科学の関係性をさらに議論する必要があるのではないか。また、設計科学については、社会のニーズにこたえられているのかという捉え方が必要ではないか。【第5回】
> ○ 認識科学と設計科学のインタラクティブな関係性は、例えば経済学で言えば、望ましい経済システムをイメージして、現状を観察し評価する一方で、実際の現実の社会の展開との整合性を認識しつつ、経済システムを設計するというような関係性と考えられる。【第5回】
再度書くが、こういう科学の在り方についての専門的な議論、ここでやるべき事だろうか?
科学者なら、仮説を立てたなら、次は検証して結果を周知すれば良い。
結果が出ていないなら、議事録に残らない雑談程度に話をとどめるべきである。
【新しい学問の発展、新しい研究領域の発展】
> ○ 自由な発想を持って研究ができ、かつ、たくさんの人が集まって議論する中から、問題意識が生まれ、新しい研究や学問が生まれてくるものである。【第5回】
「議論の中から問題意識が生まれ、新しい研究や学問が生まれてくる」、これはどの程度有効だろうか?
どの程度の例があり、どの程度の研究が生き残っているのだろうか?
私の考えでは、そもそも議論では単位時間あたりに交換される情報量が少なく、論文によって伝搬する情報量には及ばない。
個々の研究にとって議論は間違いなく有用だが、議論は新たな研究が生まれる原動力なのだろうか?
「議論の中から問題意識が生まれ、新しい研究や学問が生まれてくる」、これは学際研究のための会議の動機づけにもなっていたと思うが、検証されているのだろうか?有効なのだろうか?
> ○ 学者は、オーディナルな活動だけでなく、異端の説を唱える存在でもある。外国の流行にいち早く乗って先端の研究が進められるのではなく、日本において内発的に学術の革新が起こるためにはどうしたらいいのか、どのような機構をつくればそれが可能になるかについて議論する必要がある。【第5回】
普通に研究していれば良いのでは。
研究者は常に未知領域を開拓して、いつの間にやら革新になっているはず。
「革新」がコントロールできると思っているのか?(北風的な言い方だと分かってはいるが、太陽的な言い方はどうすればよいだろう?)
> ○ 学術についての議論の仕方が二元論にこだわって自縄自縛になっているので、見直した方がいい。また、「好奇心」という言葉で学術を説明すると、個人の趣味と受け止められてしまうので、もう少し違う言葉で説明することが必要ではないか。【第5回】
> ○ 「好奇心」とだけ言うのではなく、「新しい研究の振興」と言った方がいいのではないか。「好奇心」と説明すると趣味としか思われない。【第5回】
好奇心云々には、メロス並みに激怒してしまいそうになる。
おかしいのは、「好奇心による研究を個人の趣味と受け止め」る認識・無理解である。
好奇心を「違う言葉で説明する」、これは研究者としての敗北であり欺瞞である。
知的好奇心が研究の原動力という前提は、この人達の中では確固たるモノではなく、そして人々を納得させるための議論をしていない。
これらの意見が示している事は、研究者として外部に対する理論武装の不備、社会における学術の意義の認識不足に思われる。
このような政府の会議に出てくる研究者の認識不足が確認できた事を、是とすべきか否か。
なお、第5回の議事録を「趣味」で検索すると該当箇所が出てくるが、断定型にする事でこれらの要約はキツイ感じになっている事を明記しておく。
> ○ 「好奇心」とは、未解決の問題の発見や、問い自体がたてられていない事柄を発見することなど、オーディナルな学知を超えたところにあるものである。【第5回】
> ○ 既存の知を探求する行為と「知的な闘い」とは次元が違うものである。【第5回】
「オーディナルな学知を超えた」、「知的な闘い」、これらのように人々を煙に巻くような言葉遊びは好きじゃない。
> ○ 学術研究は、人類や世界という大枠の中で位置付けられるべき。学術研究は、自律した個人が人類全体の英知を向上させるという目的意識を持って行うものととらえるべき。【第5回】
正論。
> ○ 「異分野交流」については、第3期科学技術基本計画でも指摘されているが、実際には新しい学問が生まれていない。議論の掘り下げが必要ではないか。【第5回】
異分野交流による新分野創生については、そもそもいい加減な認識と根拠のない期待のもとで見切り発車してるので、現状についての議論の掘り下げをしても意味は無いように思う。
新しい学問が生まれるはずだった根拠は何か?
> ○ アメリカのファンディング・エージェンシーは、学術全体の方向をアレンジする役割を持っている。日本のファンディング・エージェンシーにももっと学術の世界に踏み込んでほしい。
> ○ アメリカのDARPA(国防総省高等研究計画局)のあるプログラムでは、アレンジャーがあらかじめ決められた期間にどれだけ優れたプロジェクトを作り出したか評価され、その人のキャリアとなる。日本ではそういうことがない。【第5回】
ジェネラリストばかり育てる日本の企業・役所では、厳しい。
日本の企業・役所のジェネラリスト信仰がおかしい気がするが、定年まで勤め上げるというかつての習慣が、社員を余すこと無く使うためのジェネラリストを生んだのだろうか。
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学術研究の意義 #0 一連の記事について
学術研究の意義 #1 【学術の役割について】
学術研究の意義 #2 【認識科学と設計科学】 【基礎研究と応用研究】
学術研究の意義 #3 【学術と社会の関わり方】 【新しい学問の発展、新しい研究領域の発展】
学術研究の意義 #4 【学術の在り方について】【学術の推進体制について】
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