本記事の元ネタ
マンキュー十大原理(Wikipedia)
道具にして規則に非ず:経済学入門で我々は間違った原理を教えているのか?(himaginary’s diary)
本記事では、マンキュー十大原理が「原理」に値するかを検討する。
結論として、ほぼ原理ではない。
初学者のための「経済学の基本的な10の考え方」なら納得する。
以下の内容は次の通り。
- 動機
- マンキュー十大原理の検討
- まとめ
1.動機
上記の「道具にして規則~」という記事では、David Colanderとグレゴリー・マンキューの議論、「マンキュー十大原理」を初学者に伝える際のニュアンスと明確性についての議論を紹介している。
しかしながら理系博士の自分としては、「原理」がそんなニュアンスやら明確性で左右されるものではないと言いたい。
Wikipediaでは、以下のように定義されている。
原理(げんり、羅: principium、仏: principe、英: principle、独: Prinzip)とは、哲学や数学において、学問的議論を展開する時に予め置かれるべき言明。 そこから他のものが導き出され規定される始原。他を必要とせず、なおかつ他が必要とする第一のものである。
他の国語辞書にも、基本法則などと書かれている。
このように、「原理」とは選択の余地がなく作用しているものを意味する。
「原理」にはニュアンスや明確性(の程度)が関与する余地は無い。
以下では、マンキュー十大原理が「原理」にふさわしいかを検討する。
2.マンキュー十大原理の検討
1, 人々はトレードオフに直面している
○。人間には常に複数の選択肢がある。正解あるいは成功に至らないであろう行動の選択肢はいくらでもある。
2, あるものの費用はそれを得るために放棄したものの価値である
X。放棄するものを一つに絞っている。複数の選択肢がある以上、複数のものが放棄される。1対1の対照から費用を見積もる際には常に選択の余地があるので、費用が一定でない。
3, 合理的な人々は限界原理に基づいて考える
X。1に反する。限界原理に基づいて考える事も選択肢の一つである。これが仮定なら問題ない。
4, 人々は様々なインセンティブに反応する
X。仮定なら問題ない。
5, 交易は全ての人々をより豊かにできる
X。可能性と考えれば記述は正しい。しかし悪用も可能なので原理ではない。歴史上の不平等貿易、奴隷貿易など。
6, 通常は市場は経済活動を組織する良策である
X。言っている事は正しいが、「通常は」と前提をつけているのでX。
7, 政府は市場の齎す成果を改善できることもある
X。言っている事は正しいが、「こともある」とか言い出したら原理ではない。
8, 一国の生活水準は財・サービスの生産能力に依存している
○。
9, 政府が紙幣を印刷し過ぎると物価が上昇する
✗。「人々はこのように行動するはずだ」という仮定を暗に含んでいる。
10, 社会はインフレと失業率の短期的なトレードオフに直面している
✗。記述は正しいのだが、これは状況の描写であってその背後にあるのが原理。例えば「地球が太陽の周りを公転している」が状況描写、重力が原理。
3.まとめ
結論として、マンキュー十大原理のほとんどは「原理」では無い。
「原理」ではない記述には、前提や暗黙の選択が含まれている。
私の判断の記述について疑問を持つ人々もいるだろうが、この程度のケチもつけられないのが「原理」である。
8についてもケチがつけられそうだが、後日の課題。
なお、マンキューは冒頭に紹介した記事で「これ(十大原理)は、経済学を未だ勉強したことの無い学生向けのものである。その狙いは、経済学を簡潔で理解可能な形で紹介し、経済学の方向性を掴んでもらい、その後に教えることの基盤を与えることにある。」と書いている。
それならば、「原理」と名付ける事自体が混乱の元である。
一方初学者向けと考えれば、3と4については「経済学の基本的な仮定」とすれば問題なく頷ける。
「十大原理」は誇張が過ぎるが、「経済学の基本的な10の考え方」なら私は納得する。
マンキューの罪は大きい。
「十大原理」を、初学者たちに長年信じ込ませてきたのだから。(教科書の功績ももちろん大きい)
今回の記事と(たぶん)同じ趣旨の批判記事として次を挙げる。
ビル・ミッチェル「マンキューの『原理』は洗脳だ」(2009年12月29日)(経済101)
長いので途中で読むのをやめた。
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